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入院した事を母に知らされたのが3週間前。駆けつけた先で、

「もって1ヶ月、肝臓への血管がこれ以上侵食されたら即死です。」

主治医がはっきりと言った。



その言葉を裏付けるCTスキャンの輪切り画像は、素人目に見ても明らかに「ビルの火事をバケツで消そうとしている」状況だった。

慌てても仕方ないし、私も母も落ち着いたもんだった。


主治医の提案により、とにかく出来ることはしましょうということで、府立病院で受けたハイテクな内視鏡手術は、黄疸を解消して即効的に良い結果を出した。


ただそれは限界まで回復させる為の処置だったけれど、結果的にこの選択がこの後3週間の時間を穏やかにした。


親父はお見舞いに来てくれた皆さんとよく喋った。私も毎週末、行ける日は平日も立ち寄って、うんうんとかはいはいとか、そうだね。じゃまた明日な。とか。


”本当に余命わずかなんですか?”という言葉を何度も戴いた。


府立での高度治療期間が終了し、阿倍野の病院へ戻った翌日、父を訪ねると、府立に居た頃より幾分か痩せていた。


点滴が変わっていた。仕事柄点滴や液体流動食といったモノを昔は取り扱っていたことがあったので、その点滴がどういう用途なのかは大体わかった。


「わしの此処での仕事は、もう終わったと思う。」


”此処”という意味がその時良く判らなかったけれど、身の回りの整理をしたい様な事を言ったのはこれが初めてだった。私の考えでいいから今日にでも結論が欲しい、なんて急いでる風でもあった。

うんとりあえず今日1日考えて明日また話そうなと言って、仰向けだったのを横向きに寝返りを打たせて、その日は帰った。


翌日、親父は天に昇った。


自分が旅立つ時を知っていたかの様だった。


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親父の60年は、少なくとも緩やかではない日々だったと思うし、むしろ激動に近いものがあった。

そんな中で、旅立つ前の数週間を静かに過ごして、安らかに旅立てた事が何よりだった。

末期ガンではあったけれど、いろんな方から聞く様な七転八倒も無かったし、鎮痛剤を打ち込む事も無かった。

病状や余命については、私も親父も切り出さなかったけれど、どうも親父は随分前に知っていたらしい。自分の事をなかなか言わないあたりは、私にきっちり引き継がれていると思った。

ただ、もう少し親父と喋りたかった。


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3代目クリスチャンであった親父の葬儀は、山坂の昭和教会で行うことにした。



前夜式が始まるまで随分時間があり、手持ち無沙汰だったので煙草を吸い吸い町中を歩いていると色んな人に逢った。

随分煙草を吸った。此処数週間吸えなかった親父の分まで、というと変だけれど。まぁとにかく落ち着かない。


ここを離れたのは14年前、パッと見で気づいてくれる人はなかなか居なかった。煙草を吸っている姿も珍しかったと思う。


しぶしぶ暴露した後のリアクショントップ3は「え、え!」「白髪おおっ!」「そ、、、そーちゃん???」


よく喋った。こんな機会でもないと逢う事もなかったというのは寂しいんだけれど。



そこここで子供(多分知らないお宅の)にやたらと絡まれた。春日のマネをしたらウケた。

お隣のユカちゃんが子供の頃そのままの雰囲気で可愛いお母さんになっていて驚いた。

そのお隣のおばさん姉妹は、式の前に慌てて駆け込んできて、父を前に笑ったり泣いたり忙しかった。

角ならびのおじさんは「大変やね・・・」と一言だけ呟いて、相変わらず無口だった。

酒屋のご主人も、よく遊びにいった家のお婆ちゃんも、お向かいさんも、変わらず元気だった。



次はいつになるのかわからないけれど、十数年のタイムラグが少しだけ修正された。



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仏式で言う通夜にあたる前夜式は、牧師先生と葬儀屋との打ち合わせで、おおむね50名ほどでしょうということで話を進めていた。


油断していた。

そういえば親父は生粋の地元育ち。十数年前にこの地元を離れたとはいえ、訃報は迅速に町中に水平展開された。


また、教会の前に立ててあった看板に書かれた親父の名前を見たご近所の方が「おとうさんそういえば教会にマツバラって書いてあったよ。あれって@@」「まだそんな歳やあれへんがな・・・えっと、ちょっとみてくる」という形で広まり、教会はあっという間に満員になった。



献花の際、棺の前に置くカーネーションが足りなくなり、かつてない人数を収容した教会の会堂は冷房が追いつかず、式後半は大変な熱気に包まれた。

親族代表の挨拶で振り向いてみると、超満員の会堂に声を失った。

改めて見渡すと、親父のお世話になった方、またお友達で半分以上席が一杯になっていた。

マイクを断って喋った。歌う時はともかく、喋る時のマイクってなんであんなに喋りづらいんだろうか。




ともかく、私のギクシャクしたあいさつをのぞいては、式はつつがなく終わった。

終わったあと、


「あのちょっとすんません」

 
軽トラックを適当にとめて、まさに仕事帰りな格好の男性。

親父の古くからの友人だった。

咄嗟に「あっ」と出たけれど、誰だったか思い出せなかった。ただ子供の頃の記憶になんとなく残っているこの方は旧実家の横向かいに住んでいた。


「ケンちゃんと家の前でよくタイヤ交換してたなー」


私はほとんど見ているだけだったけれど、タイヤを交換したり車を洗ったりするのによく付き合ったのを覚えている。


この方のお話でも出たけれど、どうも親父は祖母や祖父の目を盗んでは「外の垣根を潜り抜けて庭や邸内にこっそり友達を招きいれていた」様だった。旧マツバラ邸は結構広い敷地だったので、遊ぶには申し分ない広さだったけれど、この「垣根をこっそりくぐって」という話は他の方からも幾度か聞いた。東側にあった子供サイズの穴が、多分その「こっそりくぐる用」の穴だったんだと思った。


そうして訪問は後が絶えず、最後のお見送りが終わったのは21時に差し掛かったところだった。


「駐車場、ここ朝空くから使い。あ、あと向かいのとこもよく空けよるから使ってええよ。ワシ言うとくわ」


そう言ってくれたのはさっきの軽トラックの方だった。


「ワシが言うとこか。向かいやから見えるし。」


不意に会話に入ってきたのは酒屋の主人だった。

こんな感じで親父と関わりのあった沢山の方が声をかけてくれたけれど、「いやいやワシそんなんアレやから」と、記帳してゆかれない方がほとんどだった。







さて、ここから私1人が会堂に残る事にした。キリスト教では”寝ずの番”の様な概念がないので、ろうそくを消してはいけないという様な事はないけれど、なんとなく居残ることにした。


親友懲りない面々たちが来たのは、すっかり人影が無くなってからだった。


まだこの山坂5丁目にいた頃は、私の家が夜の溜まり場になることが多く、直接親父と皆が会話をするケースがあることは少なかったものの、1Fのリビングで寝転んでいる親父に「おっ いらっしゃい」と言われて「どっどうも、、」と返しながら皆で2Fへ上がり、私の部屋でワイワイガヤガヤするのがパターンだった。どちらかというと親友たちは親父の寝姿を見る方が多かったと思う。


「おやっさん、、今日も寝てるな」


そんな感じで、親父は私たちが子供だった頃の風景によく居た。



今日また久々に6人が親父と共に一堂に会し、親父が1Fで、私たちが2F。あの頃の風景が再現された。


「おやっさん、、寝てるな」


ミヤベが昔と変わらないトーンで呟いた。





ひとしきり喋って皆を送った後、静かになった教会の前で煙草を揺らしていると、山坂では見たことの無いスピードを出す車がパッシングしながら教会へ向かってカッ飛んできた。


イシハラの車だ。


なっ何、、と立ちすくんでいると、アッキーが出てきた。


「・・・ごめん傘忘れた」


笑って見送った。


「ばいばーい!」


「ゆるっ!w」


笑い声のよく聞こえる1日だった。