ココ最近何が言いたいのかさっぱり分からない論説やコラムが多くて、まるで子供の様に見たものが全ての様な書きクチのものをよく見る。どうしてそうなっているかという背景をきちんと書いて伝えるのはメディアの義務だと思うし、こんな単眼的に書いた記事がよくトップを飾るなーと。
2008年7月21日 朝日新聞1面「ルポにっぽん 下請けドライバー、車中泊連続2週間」
紙面では12日 となっていたけれど、WEBでも掲載されていた。
要約するとその日の仕事内容も分からない、まるでその日暮らしの様な下請けドライバーに密着したルポ記事。
このルポは丁寧に書き綴られていたけれど、「だからこういう人達をどうしたい」といった主張は見られなかったし、ただ単に物流の暗部を晒しただけ。モノを運ぶというシステムがどれだけ巨大なシステムで動いているのか、規制緩和や競争政策といった国策によって、今物流業界がどんな状態になっているのか、そんな背景は全く書かれていなかった。元請だって下請けだって今物凄く必死な時期だし、とにかく荷物に食らいついてゆかないとみんなやってけない。
かといって、人増やして運賃上げてもいいですか?全ての関係者が所定労働時間内で仕事して納期延びてもいいですか?なんて問題でもない。そういう微妙な雰囲気の中、なんとかして品質を保ちつつ、消費者にも納得してもらえる様な形で業界全体がサービス向上に頑張ってるわけで、安易にこういう記事をトップ記事に持ってくる意味が分からない。
この1週間後、輸送経済新聞のトップにこの記事に対する批判が「イメージダウン必至」としてでっかく載った。「悪意のある記事だ」とバッサリ斬ったコメンテーターも居た。その日はうちの会社に関係会社の社長が新聞を握って飛び込んでくる程、結構騒然とした。
2008年8月11日 毎日新聞地方版 洛書き帳:「病院には遺体に対して『不浄』という意識がある」
WEB http://mainichi.jp/area/kyoto/news/20080810ddlk26070453000c.html
「病院には遺体に対して『不浄』という意識がある」。先日ある取材で医療関係者がそう打ち明けた。かつて彼がいた病院では、患者が亡くなれば地下の安置室に移し、裏口のドアから外に出していたという▼「死」を人目に触れない場所に隠す意識が働くのだろうか。どこか死者を冒とくしている気がして薄ら寒くなった。こうした対応に理不尽さを感じる医師も少なくないらしい▼彼が現在勤務する診療所では、患者が亡くなれば病室でお別れ会をし、顔にハンカチをのせることなく玄関から送り出す。遺族からは必ずお礼の手紙が届くという。私が患者なら死んだ後も人間としての尊厳を守ってほしい。【木下武】
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意識というか、病院は清潔不潔をハッキリさせている(はっきり言う)場所だから、その言葉がいいかどうかは別として、不浄という言葉が発生するのはやむを得なくもないんじゃないかと思う。その言葉自体が亡くなった方に対する人としての気持ちかというと、違うでしょ。
規模の大きな病院になればなるほど正面玄関を通す事は難しくなるだろうし、むしろそういう方式をとっている病院がほとんどじゃないんだろうか。診療所に裏から出せる様な出口があるかというと分からない。ただでさえベッド数や看護婦、医師が逼迫している中でなんとかやりくりしている病院も多い事だろうに、それを真っ向から否定する様な書き方をする。
地下に安置室があるのも、正面玄関を通さないのも、どうしてそういう背景があるのかなんてお構いなし。誰だって人が死ぬ時には悲しい気持ちになるものだし、安らかに眠って欲しいと思う筈。病院に来る方のほとんどは「元気になりたくて」来てる人が多くて、そんな方が正面玄関から入ってすぐのエントランスで待ち合わせなんかをしてる。その中をハンカチも載せずに送り出されてくるストレッチャーが駆け抜けたら、みんな色んな気持ちを抱えてしまう。「明日はわが身か・・」っていうのは言いすぎだけれど。
大切に思っていた人が死んでしまった時は、本当にそっとして欲しいって思うし、まだ生きる気持ちがある人には頑張って欲しいと思うから、堂々と正面から出ていって、その光景を見せてしまったが為に余計な心配や不安を抱いてほしくない。だからこそひっそりと裏口から一緒に出て、自宅に一緒に帰りたいっていうのが遺族の気持ちのひとつでもあると思うんだけれど、これらが尊厳っていう言葉を持ち出す様な問題だろうか。
ちなみに、こういう私の様なエントリが、何がいいたいのかよくわからないという典型的な例です。