土曜、日曜と仕事で潰した。
昇進面接や筆記試験の立会や留守番とか。
まだまだ取り崩し出来ていない仕事は多く残っているので、丁度いいといえば丁度いいけど、さすがに日曜の晩は22時頃に寝てしまった。
タクシーの中で、不意に運転手が喋りだしたのが
「お客さん、海外旅行とか行かはります?」
だった。
60を前にして、先日のやしきたかじんが亡くなったのを見て、同年代がポックリゆく事をはじめ、もう自分もいつ死ぬか判らないから、はした金の分配なかで残された家族が揉めるぐらいなら、自分の好きな旅行という趣味に全部使ってしまいたい、今生のうちに色々な音を事を楽しみたい、という話。
流石にタクシー運転手だけあって、客の旅行話を沢山聞いている。中でも「釣り竿一本かついで南米へ飛んでいった釣りオバチャン」の話が面白かった。カヌーでアマゾンに入り込んで、ただただキャッチアンドリリースの釣り。満足したら帰国して、を何度も繰り返しているという話。
運転手本人は鉄オタなので、車窓の風景を満喫出来るところと、パラグライダーに乗りたい!という希望があるらしく、これはもう間違いなくスイスじゃないですか?という話で過ごした。
ひと通り旅行地の話をした後、前段の「自分もいつ死ぬか判らない」をぶり返して死生観の話になったけれど、自分と考え方が割と似ていた。結局、死んでからの事は死なないと判らないけれど、死んだらその時点で今の自分は終わるという事だけは確かで、後々戻ってくるだとか、帰ってくるだとか、見守っているだとかっていうのは、生きている者達の満足感でしか無いということ。
購読しているはてなブロガーさんが、"死ぬ"と言う考えをキッカケにパニックを発してしまうという記事を書いていらっしゃったけれど、私自身も死ぬ事を考えると、そら恐ろしい気分に苛まれる。幸いある程度の恐怖を感じた段階で思考にブレーカーが落ちるので大事にはならないけれど、意識が無くなって、シナプスもニューロンも機能を失って、蓄積した記憶は喪失して 、考えるという事が出来なくなる。いわゆる「無」の状態になるのが凄く恐怖。
死んでしまえば恐怖も何も無いのだけれど、何も無くなって何も無くなるという「多段階の無」という考え方が自分には有って、これがまた嫌。何かの為に命を賭すという事に躊躇は感じないので、死ぬ事が怖いんじゃなくて、死ぬというシャットダウンシステム自体が怖い。
この恐怖を回避するために出来たのが宗教だと思っている。死後、輪廻の世界をつくり、どの宗教も後から後からどんどん作りこまれて今の姿、大雑把に云うと"原罪の重さ"、"今生の罪"、"死後の裁き"、"新たな生活"になっているけれど、結局それも生きている人間が作りこんだものだし、宗教が安堵になるかというと私はそうじゃない。ただ、キリスト教の「天に召される」という、1回きりの地上生活という考え方は良いなとは思う。十字架をぶら下げているからという理由ではなく、物理とのリンクを考えても、それが一番理にかなった流れだと思うから。
しかし、やばいなー。
何も無いとか。
死ぬ話になってしまった。
自分が死ぬ時はブログも一緒に焚き上げて頂きたい。